地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう
<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第1回)
令和7年4月に、河川を生かした街づくりを支援する国土交通省のかわまちづくり支援制度に登録された、5カ年に渡る「境川かわまちづくり計画(第1期)」がスタートしました。
そこで、浦安市内を流れる境川の成り立ちを、図書館で所蔵している『浦安市史 まちづくり編』、『浦安町誌』などの地域資料や事典、浦安市郷土博物館の展示物、そして国土地理院のWEBサイトで閲覧ができる地図を使って調べてみました。
・文中の浦安市郷土博物館の展示物の写真は、許可を得て掲載しています。
・国土地理院の地図の加工した画像やリンクは、「国土地理院コンテンツ利用規約」に基づいて、掲載しています。
*図書は『』、地図や版画は<>、図書に収録されている項目や見出しは「」、引用部分は
で表示しています。
*『書名』に続く、p.〇〇は掲載ページ、(数字)は、下記の「境川の成り立ちを図書館で調べてみようの参考図書リスト」の掲載順を表します。例、『浦安町誌 上』p.152(7)は、152ページに関連事項が掲載され、<境川の成り立ちを図書館で調べてみようの参考図書リスト>の上から7番目の資料であることを指します。
*文中の『』で表示されている図書のリストは、こちらからご覧いただけます。→この連載で使用する参考図書リスト→<境川の成り立ちを図書館で調べてみようの参考図書リスト>
〜第1回 4つに分かれている境川?〜
■直線と蛇行する部分に分かれる境川
境川は、浦安市内を横断する利根川水系の一級河川で、約4.8キロメートルの長さがあります。少し細かくみると、旧江戸川からの分流地点の西水門から1つ目の境界の新橋近くまで、まっすぐに流れています(図1-1)が、新橋を過ぎると、川幅が狭くなり、江川橋まで、蛇行しながら流れています(図1-2)。江川橋からは、再び川幅が広く、直線で流れ(図1-3)、市役所庁舎近くの東水門からは、さらに川幅が広がり、東京湾へ流れ込みます(図1-4)。
浦安では、昭和33年(1958年)の本州製紙工場事件(黒い水事件)をきっかけに、昭和37年(1962年)の漁業権一部放棄に端を発して始まった第1期埋立事業と昭和46年(1971年)の漁業権全面放棄によって始まった第2期埋立事業が行われました。
第1期では、三番土堤(上の写真1)(猫実排水場から消防本部、浦安市役所へ続く道路沿いにあった堤防)から、入船地区と日の出地区の境までを埋立て、第2期は、そこからさらに東京湾側へ埋め立てた結果、境川が東京湾側河口まで、直線的に作られました。これが、図1−4です。図1−1と図1−3も直線的で似ていますが、図1-2は、蛇行していて、流れ方が異なります。そこでなぜ、流れ方が異なるのか、調べてみました。
■東京湾と浦安の成り立ち
最初に、浦安とその周辺の地形的な成り立ちは、どのようなものだったのか、図書館の資料で調べてみました。『海の日本史江戸湾』p.28(1)によると、東京湾は、約6,000年前の縄文海進と呼ばれる海面の上昇の影響で、最も遠いところでは、現在の海岸線より50キロメートルくらい奥まで入り込んでいたようです。また、『日本地方地質誌3 関東地方』p.369(2)や『江戸川の社会史』p.12(3)によると、縄文海進で広がった東京湾(「奥東京湾」)は、その後、水が引いていき、それまで、海の底だった地域は、湿地となり、川によって運ばれた土砂が徐々に堆積し、沖積層という地層ができたことがわかります。 この沖積層は、「東京低地」と呼ばれ、東側は、千葉県北部に広がる下総台地、西側は、東京都区部から埼玉県に広がる武蔵野台地に挟まれています。そして、浦安は、この「東京低地」の海岸線に位置しています。
『浦安市史 まちづくり編』p.10(4)によると、平安時代末期の保元2年(1157年)に、豊受神社、鎌倉時代の建久7年(1196年)に清瀧神社と宝城院ができたと記されています。なお、浦安という地名は、明治22年(1889年)に当代島村や猫実村、堀江村が合併して、名付けられた村名です。それまでは、これら3村が、行徳地域の村々と同様に下総国の行徳領に含まれていました。この行徳領と現在の東京都江戸川区なども含めて、江戸時代初期までは、下総国の葛飾郡というひとつのまとまった地域でした。下総国の西隣は、武蔵野国です。
両国の境界は、『東京都の地名 日本歴史地名大系13』p.242(5)に、かつて本所は、下総国に属し、それにより武藏・下総両国に架かるとして、両国橋とよばれることになった
とあるように、墨田区の本所に、国境(くにざかい)があり、現在でも、橋の名として、「両国橋」、町名では「両国」が残っています。
■境川の歴史を調べよう
浦安の地形的な成り立ちについて、おおまかなことがわかったところで、境川について、まず、『浦安市史』と『浦安町誌』で調べました。『浦安市史 生活編』p.248(6)では、境川が日常生活のさまざまな場面で大きな役割を果たしていたことが多くの写真とともに紹介されています。
また、『浦安町誌 上』p.152(7)では、境川の歴史が紹介されています。いずれも、境川の水を飲料水に用いたり、漁獲物を荷揚げしたり、あるいは子ども遊び場として、住民の生活に密着していたことが記されています。
次に、同じ領内であった行徳の歴史に関係する資料に境川のことが書かれたものがないか探しましたが、見つかりませんでした。ただ、これらの資料によると、行徳の歴史に関する事柄は、主に『葛飾記』、『葛飾誌略』という江戸時代に書かれた書物から、比較的多く引用されていることがわかりました。
そこで、当館の所蔵を調べたところ、『葛飾記』は、『房総叢書 第四輯』p.325〜(8)に、そして、『葛飾誌略』は、『改訂房総叢書 第三輯』p.433〜(9)に、それぞれ収録されていました。
『葛飾記』は、寛延2年(1749年)に青山某という人によって、刊行された書物です。『房総叢書 第四輯』(葛飾記)p.327には、現在の行徳から浦安(当時は、堀江村、猫実村、当代島村)にかけての描写と推測される箇所があります。そこには、太ト井川(利根川の流れを云フ)の東南をのみいひては、一國の府とするに足らず。地、幅狭くして、河邊と、海邊と、野薄田(また、行徳の中も、地、切迫にして、南は川より近きは二三町、遠きは十町に不レ足。北は郊野山林のみなり)計りにして、熟田なし。
と記されています。これは、川と海にはさまれた狭く痩せた土地という意味ですが、残念ながら、境川については触れられていませんでした。
一方、『葛飾誌略』は、行徳在住の名主が文化7年(1810年)に刊行したとあり、行徳の村々や堀江・猫実・当代島村の石高(こくだか)などについて記されていましたが、こちらも、境川に関しての記述は見つかりませんでした。
*薄田(うすだ)は、「土地が肥えていないため、収穫の少ない田」 (『日本国語大辞典第二版 第2巻』p.229(10)
*熟田(じゅくでん)は、「よく耕作してある肥沃な田地」 (『日本国語大辞典第二版 第6巻』p.1350(11)
今回、境川の成り立ちについて記されている資料が見つからなかったため、次回は、境川の上流である江戸川について記されている資料を探し、境川の成り立ちについて、ヒントとなる事柄がないか調べます。
令和7年(2025年)11月7日


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