浦安市立図書館

地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう

<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第3回)

〜第3回  江戸幕府と塩と川〜

  前回は、江戸幕府により、行徳の押切から海に向かっていた江戸川の流路が変えられたという記述が地域資料の中に見つかりました。今回は、なぜ、幕府は江戸川の流路を変えたのか、その理由を探ってみます。

■行徳製塩と行徳川

  『葛飾誌略』p.436に、塩(鹽)について、次のように書かれた箇所があります。御領中産物さまざま多き中に、わけて鹽は第一の名産にて、海濱付20餘村は、大躰鹽を焼いて以て活計とする也。そして、永禄十年十月の比、甲州家と北條家と楯鉾の時、小田原より甲州へ鹽留めをせられければ、流石の名將も難儀に及び、國中おおきに苦しめりとぞ。。これは、永禄10年(1567年)の、武田と北条の戦いの際の塩にまつわる話のことで、戦国時代から行徳の塩は、広く知られていたようです。

  『行徳塩浜の変遷-下総行徳塩の歴史と運命-』p.13(18)によると家康は、葛西周辺を歩き江戸城に近い行徳の塩浜を知り、それが軍事的に好立地のため保護育成政策に力を入れることになったものと思われる。行徳塩業の奨励・援助策は、とくに江戸初期において家康・秀忠・家光の三代にわたる時期がもっとも積極的にうちだされたとのことで、生産高を上げるために新しい塩田が開拓されていきました。塩田は、堤防を築いて干拓し、海水を引き込んで蒸発させ、塩を焼く砂浜で塩浜とも言います。行徳や浦安の広大な遠浅の海は、まさに塩田開発に適した土地です。しかし、押切から行徳を横切り、東京湾へ抜ける水路があると、大雨が降った後など、干拓した低地では、氾濫した川の水が塩田に入り込む恐れが大いにあり、真水によって、塩分濃度が下がり、質の良い塩を作れなくなってしまう恐れがありました。『市川市史 第二巻』p.472(19)に、塩浜のすぐ近くに水田を造成すると、場所によっては、大雨・溢水の時は、水田の真水が塩浜へ流れ込み、塩浜を傷めることがあり、よほど注意せねばならなかった。とあり、大雨などによって、川が増水して真水が流れ込むことは、塩田にとって問題でした。つまり、幕府御用達の塩田を守るために、川の流れを変えたのではないかと考えられます。

  幕府が江戸川の上流の利根川東遷という大工事を行ったことにより、奥州からの農産物などの集積場であった銚子から、利根川をさかのぼり、関宿で江戸川へ入り川伝いに、松戸や行徳、そして江戸まで水路がつながりましたが、この大工事が行われていた頃、東京湾近くでは、日本橋から、行徳へつながる小名木川と新川という2つの水路を掘削しました。『戦国期江戸湾海上軍事と行徳塩業』p.182(20)によると、2つの川を総称して、行徳川とも呼んでいたとのことです。江戸川と行徳川がつながることにより、東京湾に比べて穏やかで安全な川伝いに日本橋まで行くことができます。これで、より多くの農海産物が集まるようになった江戸は、発展を遂げていきました。

  『房総と江戸の交流史』p.61(21)によると、“江戸川の本行徳河岸から日本橋小網町の行徳河岸までは三里八町もあった”とあり、“寛文9年(1669年)に行徳に旅客輸送が認められ、房総方面への旅行者や成田参拝者に人気を呼んだ。"とあります。このルートは、「浦安の成り立ちと歴史」の第2回で紹介した、『江戸近郊道しるべ 現代語訳』(22)を書いた村尾嘉陵が後年、利用しています。

歌川広重「名所江戸百景 中川口」

出典:NDLイメージバンク  歌川広重「名所江戸百景 中川口」を加工しています。  小名木川と中川が合流する地点

  また、小名木川と中川の合流付近(上の版画)や、行徳川を上ってきた積み荷の集積場ともいえる日本橋小網町の蔵が立ち並ぶ様子は、歌川広重の名所江戸百景でうかがい知ることができます(「浦安の成り立ちと歴史」の第2回へのリンク)

*一里は、3.9273キロメートル。三里八町で、約12.7キロメートル(『令和6年 理科年表』(附23 p.1165)

  以上のように江戸川の流路を変えたのは、@行徳地区の製塩の奨励と保護、A利根川から江戸川を経由して江戸へ入る船による物流促進のためであったことがわかります。

  次回は、江戸川が流路変更される前の土地(現在の旧江戸川の川底)は、どのような土地だったのかを探ってみます。

令和7年(2025年)12月17日

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