浦安市立図書館

地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう

<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第4回)

〜第4回  地続きだった?浦安と葛西〜

  今回は、江戸幕府により、流路変更される前は、どのような土地だったのかを探ってみます。

■地続きだった浦安と葛西

  江戸川が流路変更される前の土地(現在の旧江戸川の川底)は、どのような土地だったのでしょうか。『浦安町誌』や『葛飾記』、『葛飾誌略』で探してみました。まず『浦安町誌 上』p.154の江戸川についての記述の最後に江戸川区堀江町は、昔は堀江村地先にあって、五丁歩、孫新田、金主分(きんしゅぶ)と小さな澪を境にして連なっていた萱生地であったが、洪水のために江戸川の本流が変わって堀江村は二分され、堀江町は対岸に取り残されたものであるという。とあり、澪(みお)があり、萱(かや)(写真3)が生えていたとされています。なお、ここでは、江戸川の流れが変わったのは、流路変更工事ではなく、洪水のためとされています。『浦安町誌 上』p.33によると、「五丁歩」、「孫新田」、「金主分」は、堀江の区画で、昭和の中頃まではこの字名(あざめい)が残っていました。中央図書館レファレンス室に展示されている『浦安町全圖』で確認したところ、現在の浦安市堀江4丁目から富士見3丁目にかけての旧江戸川に面していたことがわかります。

*澪(みお) 緩勾配の浅海底に刻まれた沖方向に伸びる溝状の凹地。干潟などでよくみられる。『地形の辞典』p.848(23)

*萱(かや) 屋根を葺(ふ)くのに用いる草木の総称。『日本語大辞典 第二版 第3巻』p.1031(24)

*浦安では、萱の一種である葦(ヨシ)を海苔簀の材料として使われていました。『のり〜海苔養殖とヨシ〜』(25)

  さらに、『葛飾記』p.330には、次のように記されています。大昔は、行徳領の内、堀江村を大船の場といふにて、若干の町割・鍛治町・肴店などの跡有ルよし也。其の時代は、葛西ノ長嶋といふ所と地續き也。

  葛西の長嶋とは、昭和54年(1979年)頃まで使われていた字名で、現在の江戸川区東葛西周辺で、浦安橋を葛西へ渡り終えた一帯です。

萱の一種、ヨシの画像

写真3 萱の一種、ヨシの画像
(浦安市内で撮影)

  『葛飾誌略』p.438では、「夕巻川」として、次のように記されています。是も此川の一名にて・・・とあり、はい川。是も此川の一名也。そして、此川筋は武藏・下総の国境と成る。とあります。武蔵国と下総国の国境(くにざかい)は、江戸時代に入ってから、江戸川へ変更されています。刊行年(1810年)から考えると、「夕巻川」や「はい川」は、江戸川のことになります。続いて、此川、むかしは小川にて、葛西方に付て川筋あり。古利根とて今に存す。今の如く大川と成りしは、元和年中、公命を以て開く。とありました。文脈から「古利根」も、江戸川を指しており、昔は、川の名前がひとつに定まっていなかったようです。

  元和年中とは、1615年から1624年にあたります。1625年(寛永2年)の細川忠興が江戸川の流路変更を行ったとされている年の1年前までの期間にあたり、わずかに誤差があります。

  このように表現や時期に違いはありますが、押切から三番瀬方向へ流れていた江戸川を、工事によって浦安方向へ流れを変える前は、浦安市と江戸川区の間には、人の移動に大きな支障がでるほどの大きな川はなく、わずかに小川が流れる程度の湿地帯だったか、あるいは干潟のような土地だったことから、堀江村と長嶋は、地続きだったと表現されていたことがわかります。

  『明解行徳の歴史大事典』p.41の「江戸川変流工事」の説明には、江戸川区側に本堤(現在の篠崎街道)を築き、現在の流路にあたる河原や葦地を掘削、掘り上げた土で湊と本行徳の間を東京湾へ流れ出ていた江戸川を締め切るとともに・・・(中略)・・・川土手(自然堤防)を補強、江戸川区側の本堤との間に外堤として小堤を築いた。とあります。湿地帯に、行徳側と江戸川区側に堤を築いて、江戸川を通した結果、堀江村と長嶋が堤と川で分断されて、地続きでなくなったことがわかります。また、『浦安町誌 上』 p.5には、堀江飛地として、江戸時代には、江戸川以西の東京湾に面したところに堀江村の飛び地があった。 とあり、明治28年に葛西村に編入されるまでは、堀江村に属していました。これも、地続きだった頃のなごりであることが伺われます。

歌川広重「名所江戸百景 利根川ばらばら松」

出典:NDLイメージバンク  歌川広重
「名所江戸百景 利根川ばらばら松」

  第3回で、ご紹介した『名所江戸百景』に、「利根川ばらばら松」という作品が収められています。制作されたのは、江戸末期の安政3年(1856年)2月から同5年( 1858年)10 月にかけてのことで、江戸川の流路変更が行われてから、約200年後の頃です。江戸川は、下記の『四神地名録葛飾郡』に記載されているように「利根川」とも、称されていたようです。ここでは、川魚を獲る投網が描かれていることから、すでに漁ができるような環境になっていたことがわかります。

  なお、この「ばらばら松」の場所は、諸説あるようですが、『江戸百景今昔』(26)p. 248によると、松のある所は堀江あたりか、逆方向の妙見島の中州かとあり、『江戸・東京百景 広重と歩く』(27)p.229では、妙見島説に与しておくとあります 。

ちょっと一服

郷土博物館に、寛政6年(1794年)、幕命により編纂されたとされる『四神地名録 葛飾郡』 古川 古松軒(ふるかわ こしょうけん)/著に、堀江村などが記されている絵図が展示されています。『四神地名録 葛飾郡』[8]は、国立国会図書館デジタルコレクションでも、閲覧することができます。

『四神地名録』の一部。出展は、国立国会図書館デジタルコレクション

出典:国立国会図書館デジタルコレクション  古川辰『四神地名録』[8]

  次回は、流路変更された江戸川(旧江戸川)と境川がつながっていたか考察します。

令和8年(2026年)3月18日

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