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地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう

<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第5回)

〜第5回  流路変更後の江戸川と境川〜

  ここまで、幕府が、江戸川の流れを変えたことについて調べていくと、いくつかの地域資料によって、堀江と対岸の長嶋は、地続きだったことが分かりました。

■氾濫平野を掘って作った境川

  江戸川が流路変更される前、境川は、『葛飾誌略』に記されているように 、此川、むかしは小川にて、葛西方に付て川筋あり。と述べられている小川に、つながっていたのでしょうか? あるいは、小川ともつながらずに、湿地帯に溶け込むようにわずかな水を細々と集めた程度の川だったのでしょうか?それとも、行き止まりの小さな入り江だったのか、あるいは、大雨などで小川が増水した時にだけ、つながる水路だったのでしょうか?

  ここからは、地域資料に加えて、イメージしやすいように、航空写真や地形図などを閲覧することができる国土地理院のWebサイトの標準地図に「治水地形分類図」を重ねたものを参考にしてみます(図3)。「治水地形分類図」は、治水対策を進めることを目的に、国・都道府県が管理する河川の流域のうち主に平野部を対象として、扇状地、自然堤防、旧河道、後背湿地などの詳細な地形分類及び堤防などの河川工作物等を表示している主題図です。と説明されています。

治水地形分類図を重ねた図

図3 出典:国土地理院Webサイト
国土地理院地図に治水
地形分類図を重ねた図

  図3の左側を上下に描かれた水色が旧江戸川で、途中で分岐して右下へ流れる細い水色が境川です。境川の西境橋から江川橋あたりまでの両岸に黄色で示されている範囲は、砂洲・砂丘とされています。「治水地形分類図の内容(記号一覧)」によると砂洲・砂丘とは、「砂丘」は、風によって運ばれた砂が堆積して比高2〜3メートル程度以上の丘になった地形をいい、「砂洲や砂嘴(さし) 」は、波浪や沿岸流によって形成された地形をいうとあります。白地に朱点の部分は、「人工改変地」のうちの「干拓地」とされています。そして、大部分を占める薄緑色の範囲は、低地の氾濫平野です。氾濫平野は、低地のうち、河川の堆積作用によって形成された起伏の小さい低平地を総称して「氾濫平野」とする。本川の氾濫平野の他に、谷底平野、海岸平野、三角州を含む。と説明されています。この図によると、当代島から堀江にかけては、氾濫平野が広がり、その中の境川両岸の一部だけが少し盛り上がった地形だということが分かります。そして、市役所あたりから東京湾寄りの黄色の範囲(地図の右下)は、近年の埋立地を表していますが、この間に挟まれるように、白地に朱点の干拓地があります。

  図3で、旧江戸川から分岐する境川の直線部分は、氾濫平野(緑色表示)の部分だけでなく、砂州・砂丘(黄色表示)の5分の1ほど、現在の新橋あたりまで入り込んでいます。直線部分が人手によって掘られたとすると、1625年の細川忠興による江戸川の流路変更までの境川の江戸川側は、行き止まりの入江だったことが伺われます。

■江戸川から受けた恩恵

  江戸川の流路変更によって、砂洲・砂丘(黄色表示)にある集落から、氾濫平野(緑色表示)を数百メートル横断したところに、飲料や生活用水に使える新鮮で豊富な淡水が流れることになりました。さらには、行徳川を経由して、江戸へつながるルートを確保できることになり、近隣でとれた魚介類を江戸へ運ぶことが可能になったようです。この頃、旧江戸川と砂州・砂丘の間に広がる氾濫平野として表示されている緑色のエリアは、『葛飾記』で記されている薄田(収穫の少ない田 第1回を参照)だったところです。ここに、1625年以降、人の手で、江戸川と境川をつなぐ水路を掘ったことにより、西水門から新橋を越えたあたりまで、直線的な流れになったことが伺われます。

  旧江戸川の水は、『浦安町誌 上』p.153の江戸川の項に、その清澄な川水を長いこと飲料水として使用してきた。とくに下今井付近は水の清澄なところで、徳川時代には将軍家の飲料水を、はるばるここから取り寄せたと伝えられる。と 記されており、猫実では、昭和の初め頃まで境川の水を飲料水や生活用水などに使用 していました 。また、昭和の時代も、行徳 ルートで、海産物などを江戸へ輸送し、生業をたてることができることになりました。江戸川から境川へつながる水路を掘った恩恵は、計り知れないものだったことが伺われます。

  次回は、「治水地形分類図」の砂洲・砂丘で表示されている地域について調べます。

令和8年(2026年)4月2日

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