地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう
<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第6回)
〜第6回 砂州砂丘の六軒宿〜
前回は、国土地理院の「治水地形分類図」を使って、浦安の土地の成り立ちを調べてみました。今回は、さらに郷土博物館の展示物などで調べてみます。
■砂州・砂丘と境川蛇行
図1−2の蛇行している境川は、前回、使用した図3の黄色で示されている砂洲・砂丘の範囲に収まっています。浦安市郷土博物館の「土地の成り立ち」のコーナーに、砂洲・砂丘の範囲内にある猫実3丁目の地層の標本が展示されています(写真5)。展示からは、現代の地表面は、豊受神社などが創建されたとされる頃より、2メートル以上高くなり、さらに、江戸時代が始まる1600年頃に比べて、1メートル程度高くなっていることがわかります。同様に、境川の川面からも、地面が相応に高くなっていると考えられます。現在の境川の川面からの高さは、2メートル以上ありますが、昔は、地面と川面の距離が、今よりずっと近かったと推測されます。また、この辺りは、砂州砂丘のため、昔から干拓や埋め立てなどの地盤改良が行われなかった結果、自然のままに蛇行しているものと推測されます。
国土地理院のWebサイトでは、地形の断面図を見ることができます。「治水地形分類図」の黄色で示されている砂州砂丘を横切るように、旧江戸川近くから、豊受神社近くの大三角線までの断面図を見ると、現在でも周囲より標高が高いことが分かります。(図4)
この砂州砂丘と表示される黄色のエリアでは、建久7年(1196年)創建の清滝神社と宝城院が堀江側の西端、浦安最古の保元2年(1157年)創建とされる豊受神社が猫実側の東端に位置していることがわかります。『浦安町誌 上』p.39には、「猫実」の小字(こあざ)が掲載されていて、六軒宿 庚申堂から横に入った付近で、人家が六軒しかなかった。
とあります。また地元、浦安の人が書いた『随想 六軒宿ものがたり』(26)によると、六軒宿は、集落が形成された当初、六軒だけしかなかったので、そう呼ばれたようです。猫実の発祥ではないかとも考えられます。
とあります。『浦安町誌 上』(p.4)には、鎌倉時代に永仁の大津波に遭い、鎌倉時代に永仁の大津波に遭い、部落は甚大な被害を被った。その後部落の人達は、豊受神社付近に堅固な堤防を築き、その上に松の木を植え、津波の襲来に備えた。(中略)今後はどんな大きな津波がきても、この松の木の根を越すようなことは、ないと喜んだ。この松の根を波浪が越さじとの意味から「根越さね」といい、それがいつの間にか猫実と称されるようになり、本村の村名になったという。
とありますので、12世紀後半(平安時代後期から鎌倉時代前期)に、少しでも海面から離れた小さな丘のようなところ、もしくは、遠浅の海に浮かぶ小さな島に人々が住み着いたことが伺われます。そして、豊受神社に堤防を築いたということは、豊受神社と江川橋を結ぶラインの東側は、海沿いだったということになります。
■江川橋から下流へ
ここでは、江川橋周辺から下流の図5(3の江川橋と東水門の間)が、なぜ直線的なのかを調べてみます。
江川橋から約130メートルさかのぼると、境橋があります。ここには、市が設置した案内板に「おっぱらみ」とあります。『浦安町誌 上』p.153によると、その昔、入梅時期の増水に行徳の製塩業者が、境川の水をせき止める人々を追い払った
話と、一説によるとして、堺川(原文ママ)の下流には塩田がたくさんあって、製塩を営む者がたくさんいたが、入梅時期になると下流に淡水が流れ込むのでこれを防ぐために、東堺橋(現、境橋)付近で・ ・・ (中略)・ ・・ その期間だけ締め切りするのを例としていた。
と記されていることから、浦安でも製塩が行われていたようです。『戦国期江戸湾海上軍事と行徳塩業』p.197には、塩浜年貢を納めた行徳領の村々として、堀江村、猫実村、当代島村などが古来26か村に含まれているとあります。古来とあることから、江戸幕府による製塩の保護以前から、浦安では塩づくりが行われていたことがわかります 。
『浦安町誌上』p.152にあるように、「おっぱらみ」がある東堺橋(現在の境橋)から一つ下流の江川橋がかけられたのは、昭和に入ってからですが、境川にかかる橋なのになぜ江川橋なのでしょうか?実は、昭和40年代まで、ここに境川と直角に交わる江川という水路があったことが橋の名の由来と思われます。『明解行徳歴史大事典』p.38によると、江川とは、塩田へ水を導くための水路
とされ、昭和の半ば頃までは、船だまりとして使われていましたが、現在では、公園などになっています。
東堺橋で、江戸川からの淡水を止めて、下流の塩田に流れ込んで塩分が薄くなることを防いだということは、東堺橋までが川であったこと、江川が塩田へ海水を導くための水路
であること、図3(治水地形分類図)の砂洲・砂丘の東京湾側の端にあたることなどから、江戸幕府の製塩の保護育成政策のもとに塩田を運営していたことが伺われます。また、大三角線から三番土堤まで、干潟あるいは遠浅の海を干拓して、塩田を作るとともに、海へ出漁するために、塩田の中を境川から東京湾へつながる水路を作り、六軒宿から出漁して行ったことが推測されます。なお、図3では、江川橋から現在の市役所あたりまでの地域は、干拓地とされています。
このようなことから、浦安でも塩の生産が盛んだったことがあるようですが、実際はどのような状態だったのでしょうか。次回は、浦安の塩作りにまつわる話になります。
ちょっと一服
『葛飾記』で紹介されている「八景」のひとつに、「猫小寝(さねの)夜雨」があり、次のような漢詩が続きます。
「葛郡孤村臨二海岸一。夜苫漁火寂寥歸。濤荒溟暗霑㆓雨。投㆓棹瀟湘㆒懐㆓曲磯㆒。」
さらに、「雨雲の海かきくらし磯ぎはによるの舟がけしばしぬるとも」とあり、海に舟が浮かぶ情景が詠まれています。
*八景とは、ある地域で 、特にすぐれた八か所の景色 のこと。 『日本国語大辞典第二巻10』 p.1208(27)令和8年(2026年)4月15日


