地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう
<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第7回)
〜第7回 浦安の塩と米〜
■塩田荒浜
『戦国期江戸湾海上軍事と行徳塩業』p.199に、行徳塩業は農業の合間に生産する兼業的な性格が強く、両者によって生活が維持されていたのである。経営規模はたとえ小さくても、生活のためには塩業はなくてはならないものであった。
とあります。また、p.197には、1629年(寛永6年)に行われた寛永検地で、製塩を行っていた行徳領塩浜付きの古来26か村(本行徳や伊勢宿、原木など)のうち、堀江村、猫実村を含む8カ村が荒浜になってしまったため、年貢を取られなかった
とあります。この時、当代島村は、免除の対象とはなりませんでしたが、同書p.214に、寛永検地以後に荒浜が増え、そのあと耕地化していったとみられるが、特に寛永期に当代島村の田中(号内匠)十兵衛が欠真間村の狩野新右衛門(号浄天)とともに開削した内匠堀(たくみぼり)によって、耕地化が促進された。
とあり、1702年(元禄15年)の検地の記録では、堀江村、猫実村、当代島のいずれも、見当たりませんでした。
これらのことから、塩田開発の始まりから間もない江戸の初期に、すでに堀江、猫実では塩を作ることができなくなったようです。荒浜になってしまった原因は不明ですが、1625年(寛永2年)の江戸川の流路変更によって江戸川と海の入り江がつながって境川となり、淡水が塩田に流れ込んだことで、塩分濃度が薄くなり品質が落ちてしまったのかも知れません。いずれにしても、堀江村、猫実村、そして少し遅れて当代島村では、塩田を稲田に変えて、稲作へと転換していったことが伺えます。
■「おっぱらみ」の名の由来から推測できること
『浦安町誌 上』p.153に「おっぱらみ」の名の由来についてのふたつの言い伝えが記されています。
ひとつ目は、梅雨時に雨量が増え、江戸川が増水し、堺川(原文ママ)に流れ込む淡水が増えてくると、行徳地先沿岸の海水の塩分が薄くなり、行徳の製塩業者が、塩をつくるのに支障をきたしていました。そこで、東堺橋付近を締め切りましたが、今度は、漁師たちが海にでることができなくなってしまいました。そこで、強引に締め切りを取り払い、行徳の製塩業者を追い払ったことから、この「追い払い」が、いつの間にか、「おっぱらみ」に変わり、その辺の地名になった
というものです。
ふたつ目は、堺川の下流には、たくさんの塩田があり、梅雨時になると下流に淡水が、流れ込むのでこれを防ぐため、東堺橋付近で端口板(はぐちいた)や土砂で、その期間だけ締め切っていましたが、大雨が続いて堺川が増水すると、水勢に押されて、締め切りがたびたび「はらむので」、「おっぱらみ」というようになった。
というものです。
ひとつ目の言い伝えは、堀江村、猫実村の塩田が荒浜になってしまい、稲田へ転換した後のことのようです。荒浜になった塩田を稲田へと変えていった堀江村、猫実村の人々にとっては、淡水が増えても影響は少ないですが、行徳で塩業を営む人々にとっては、淡水が流れ込むことにより、海水の塩分濃度が下がることは死活問題でした。現在の猫実排水機場(浦安中学校そば)からすぐ北側は行徳です。当時の境川の河口は、現在の市役所近くの東水門あたりで、ここから大量の淡水が流れ出ると潮の流れ次第では、あっという間に行徳方面に広がり、塩の質を落としてしまう塩分濃度の低い海水が塩田を襲う被害が起こったことが推測されます。
ふたつ目の言い伝えは、境川沿いに住む人々が、塩田で収入を得ることができた時代のことで、淡水が流れ込むと堀江村、猫実村の塩田に被害が及んでしまうような塩田の生産性が高かった頃、つまりひとつ目の言い伝えより、早い時代のことだったのではないかと推測されます。
どちらの言い伝えが「おっぱらみ」の名の由来なのか不明ですが、時代的には、塩田で収益を上げることができたと思われる、ふたつ目の言い伝えが先で、後年、塩田で塩が採れなくなり、稲田などに変えていく中で、海岸線がつながっていた行徳では製塩が長い間続き、ひとつ目の言い伝えのように行徳で塩田を営む人々との争いがあったことが推測されます。
『市川市史 第二巻』p.471「第五節 耕地への転換 −塩業の終末」には、あまり長年同じ塩田面を使用しているとその砂の含む塩分が薄くなり、能率が下がるのである
とあり、対策の一つとして、地先に次々と設定して行く場合には、堤をその都度海面に向けて前進させ、それにしたがって塩浜を前面に展開していくことになる。
そして、塩分が薄くなった古浜は普通の田畑に作り替えられる。田の場合には、江戸川からの用水路によって真水を流し込み、畑の場合は、土を盛り上げて作るのである。
とあります。そして、全体として停滞そして衰退のコースを辿ったのであり、したがって、塩浜の田畑成はしきりに行われた。
とあり、同一場所での数十年単位での塩田経営は不可能だったようです。また、繰り返しになりますが、『市川市史 第二巻』p.472の塩浜のすぐ近くに水田を造成すると、場所によっては、大雨・溢水の時は、水田の真水が塩浜へ流れ込み、塩浜を傷めることがあり、よほど注意せねばならなかった。
とありますので、土地が狭く、稲田・塩田・川を分け隔てるスペースがほとんどなかったと思われる行徳領内では、塩田と水田は利益相反する関係だったことが伺えます。
*田畑成(たはたなり)とは、江戸時代,水田を畑に転換すること。畑を水田に転換する畑田成にたいするもの。(『日本国語大辞典 第2版 第8巻』p.1069(28)
ちょっと一服
『利根川文化研究 45』p.3(29)によると、行徳には、延宝8年(1680年)8月の高浪の記録が残っていて、行徳領塩焼8カ村に高浪、つまり高潮が打ち寄せ、家が流され百姓に難が及び塩田も荒浜になったとの記録があります。『日本災変通志』p.391 (30)には、この高潮に該当すると考えられる、閏八月五日夜、大風雨
から始まる記載があり、浜松や掛川そして、江戸市中でも、被害の記録が残されているようです。この時の高潮の被害を受けて、幕府は元禄検地を行い、行徳領の塩田の実態が把握されることになりました。海抜の低い海沿いの行徳領は、このような高波や津波や境川の増水などによって、塩田が、荒浜になってしまったのかも知れません。
次回は、最終回になります。
令和8年(2026年)4月28日