地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう
<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第8回)
〜第8回 まとめ (最終回)〜
7回にわたり、境川の成り立ちや変遷などが明確にわかる資料をさがしてきましたが、見つかりませんでした。そこで、今回ご紹介した、さまざまな地域資料から推測できたことをまとめてみました。
猫実に人が住み始めたとされる12世紀後半頃は、図6の赤い丸で囲った砂州砂丘部分だけが、島のように遠浅の海に浮かんでいたのかも知れません。さらに、鎌倉時代からの開墾で徐々に旧江戸川岸の土地面積を広げていきました。そして、長い時間をかけて、川や海の影響で土砂が堆積した氾濫平野を埋立てや干拓で陸地化し、それにあわせて境川を「活用」するために、掘削して、元々の境川を旧江戸川方向と東京湾方向の双方へ延長していったことが伺われます。
江戸時代に入ると、幕府による行徳塩業の奨励と保護、水運の整備のために江戸川の流路変更が行われた結果、現在の旧江戸川と境川を人工的に水路でつなぐことにより、境川には良質で豊富な淡水が流れ込むようになり、生活用水や農業用水として使用することができるようになりました。そして、東京湾で獲れた魚介類を江戸へ安全に輸送する水路を確保できた結果、漁業で生計を立てることができるようにもなりました。
一方、江戸時代初期の海岸線は、現在の江川橋、豊受神社沿いでしたが、幕府の塩田開発奨励をきっかけとした干拓によって、海岸線が三番土堤まで、進出しました。自給自足に近い細々とした生活から、幕府の奨励する塩田開発のために干拓した土地で製塩を行い、それまで以上の収入を得ることができるようになりましたが、間もなく荒浜になってしまい、製塩ができなくなったため、稲田に転換して、稲作を行うようになりました。そして、塩田として干拓した土地を掘って水路をつくり、境川と接続することによって、漁のために舟で東京湾へ出ることができました。
昭和30年代に入ると、浦安の土地は、地盤沈下のため、稲作に適さなくなり、レンコンの生産が主流となりました。昭和44年(1969年)3月には、それまで都内へは、バスか船で時間をかけて移動するしかなかった浦安に、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)(現、東京メトロ)東西線浦安駅が開業しました。地下鉄東西線により、都心へ移動する時間が一気に短くなり、通勤通学しやすくなったこと、埋立事業や土地改良事業などによる宅地化が進んだことなどから、農業をする人がいなくなりました。漁業も、埋立事業のきっかけとなった、旧江戸川の汚染などによる漁業権放棄により、衰退してしまいました。
そして、埋立事業により、新たに造成された土地には、鉄鋼団地やテーマパーク、商業施設、集合住宅が作られ、浦安の産業は、大きく様変わりし、現在に至っています。浦安は、土地面積の拡大と境川の延伸が、それぞれの時代の産業とその盛衰の転換点に密接にかかわり、人々がその都度、変化にたくましく適応しながら発展してきたことがわかるのではないでしょうか。
ちょっと一服
水産業と農業の売上総額がわかる資料があります。『大正6年浦安町誌(復刻版)』p.199(31)「農業-農産物」によると、“農産物ノ主ナルモノハ米、萱ニシテ、年産額米ハ4,767石”、65,592円、萱ハ13,870円ニ上ル。然レドモ米ハ本町ノ需要ヲ充タスに足ラズ。“とあります。浦安町内での需要を満たすほどの量ではないですが、農業における主産物が米と萱(かや)だったことがわかります。一方の水産業では、海産物では、イナ、ボラ、メナダ、サヨリ、淡水物では、鰻、鯉、鮒などがあげられています。また、水産製造物として、佃煮、乾海苔、牡蠣灰があげられています。そして、水産業の売上総額は、229,408円となっていて、農業のそれの3倍を超え、やはり水産業が主幹産業でした。 塩、米、海苔、佃煮を生産してきた堀江、猫実、当代島。浦安のソウルフードは、おむすびといえるかもしれないですね。
「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」は、今回で終わりです。
令和8年(2026年)5月20日

