当代島在住 40代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
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当代島在住 40代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000034
説明・要約
【震災当日】
●幼稚園の卒園式も延期、事務手配に追われる:木場の実家も無事だとわかったので、一番の関心事は、幼稚園の卒園式が延期になったことでした。紅白饅頭の再手配や連絡書類の作成を行いながら、あまり外出しないでいたので外の様子もあまりわからない状況でした。余震も怖いし、家に娘といるほうが安心、と考えていたように思います。その後、日程を遅らせて実施された卒園式では、イスの配置を変えて避難通路を広くしたほか、来賓の挨拶も割愛されて早々に進行し、出席者や園児が園内に滞在する時間を短くするように配慮しました。市の行事では、来賓の座るイスの下に防災頭巾を置いたりしていたこともありました。当時は、そのような措置を取ることが多かったように記憶しています。
●被害状況に差があり、地域互助が機能:うちはガスも水道も使えましたが、水道が使えない地域もあることがわかってきました。生協の宅配が届けられた友人宅は水道が止まっていたので野菜が洗えず、私にくれたので、代わりに「水と交換」なんてこともありました。スーパーでの買い占め行為の横行は、冷ややかに見ていました。必要な分だけ買って、ほかの人にも行き渡るように、という思いがなぜもてないのか、と残念に思っていました。明海の親戚の家は水も電気も来ていなかったそうですが、給水車での水の配布は行われたということです。ですが、エレベーターが動いておらず、タワーマンションの16階まで重い水タンクを持って上がるのが大変なので、彼らは夫婦二人で都内のホテルに避難していました。ガス、水道が不自由な友人にお風呂を提供する、というような民間の互助もありましたが、長くは頼りづらいものです。行政のサポートがもっとあればと思いました。
●計画停電、ガソリン不足…震災直後のその他の記憶:自宅は大きな被害を免れて幸運でした。地域にもよりますが、戸建てや古いアパートなどは大丈夫だったようです。被害を訴えたのは、新しく建ったタワーマンションなどがほとんどでした。乳飲み子と共に遠方に避難した友人の子どもを預かるなど、それまでなかったイレギュラーなことがさまざま起きました。しばらくして、私たち親子3人は自転車で市内の様子を見て回ったことがありました。そのとき、浦安駅近辺の液状化、スーパーマーケットの外壁のヒビ割れ、地盤の段差など、さまざまな爪痕を目にしました。道がガタガタで走りづらかったことも記憶しています。舞浜のディズニーリゾートも3月中はまだ営業しておらず、汚水の臭気が凄かった。4月1日にイクスピアリが先に再開して、映画の日に観に行ったのを覚えています。一本の道を境に、被害の程度が著しく違うことも多くありました。被害が少なかった側もその幸運を喜べないような、殺伐とした雰囲気でした。そして、余震がいつまで続くのかという不安が、ずっと後まで残りました。