弁天在住 60代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
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弁天在住 60代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000078
説明・要約
【震災発生翌日〜現在】
●約 1 カ月の間、娘の家に居候 松戸は平和そのものでした。地震発生から約 1 カ月間、そこにいて浦安の中学校へと通勤 していました。その間、松戸と中学校の間を行ったり来たりするだけで、自宅にはほとん ど立ち寄りませんでした。泥だらけになった家と庭を思い出すだけでも嫌でした。
夫は何度か自宅に戻って、泥の撤去作業に精を出していたのですが、とても大変だったよ うです。実はペースメーカーをしているため、作業もままならなかったのです。それを見 た自治会の人がボランティアの人を紹介してくれ、一挙に片づけることができました。10 人の若者たちが 1 日中、必至になって泥をかき出してくれました。本当に感謝の気持ちで いっぱいです。
震災の週明け、月曜日に出勤しようとしたのですが、武蔵野線が止まっていたため学校へ 行くことができませんでした。それで翌日からの出勤となったのですが、その頃にはほと んどの住民が家に戻った後で、かなり落ち着いていました。ただ、校内が泥だらけになっ てしまっていて、毎日大掃除に追われました。住民用に設けられた仮設トイレの清掃も、 毎日根気よくしていた記憶があります。
●松戸の水が汚染されているという報道が 周囲の人たちはさまざまな困難に苦しんでいるなか、私たち夫婦だけが松戸に行ってしま ったことに申し訳なさもありました。できる限りの数のペットボトルに水を入れ、通勤の 際に運んでは近所の人たちに配って回っていましたね。 1 週間ぶりに歯を磨くことができた、 顔が贅沢に洗えたという手紙をもらったのですが、その人たちのことを思うととても辛か ったですね。
水を運ぶことに精を出していたら、そのうち松戸の水が放射能に汚染されているというニ ュースが流れ始めました。それまでさんざん水を運んでいた私は一体何だったのだろう… …とも思いつつ、今度は生まれたばかりの孫たちのための水確保が大きな課題となりまし た。幸い、田舎のほうからペットボトルの水を何箱も送ってもらうことができたので助かりました。
●ライフラインは復旧するも、豪雨で水浸し状態に 4 月半ばには上下水道が復旧したので自宅に戻ったのですが、まだ家のなかはひどい状況で、 住むという感覚ではありませんでした。ただ寝るためにだけ帰ってくるといった感じでし たね。リタイヤして家にいた夫はいろいろと片づけていましたが、まだまだ砂塵もすごく、 気持ちの悪い状況でした。やっとまともな暮らしができるようになったのは、5 月の連休明 けぐらいからでしょうか。
精も根も尽き果てたといった感じでしょうか……。一応住めるようになったとはいっても、まだ家は傾いたままです。もうこんな家には住みたくないと常々思っていた矢先、台風のようなすごい豪雨に見舞われました。そのときまでわからなかったのですが、壁に大きな ヒビができていたのでしょうね。2 階の部屋が水浸しになり、そのときやっと建て替えの決 心をしました。
我が家の場合はまずさら地にし、杭を打って地盤を固めてから建て替えたので問題はなかったのですが、傾きの調整や液状化対策をしようとした家の中には悪徳業者の言いなりに なってしまった人も多かったようです。今考えると変だと思うような話を持ち掛けてくる 業者が、当時はいたるところにいました。地域全体がある意味でパニックになっていたような状況でしたから、きちんと冷静な判断をできなかったということもありますが、今に なって一体あれは何だったのだろうと皆で話し合っています。