当代島在住 20代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
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当代島在住 20代女性 震災体験談(震災発生翌日〜現在)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
コンテンツ番号 UT00000174
説明・要約
【震災当日】
●母と妹の帰る手段をひたすら探す:仙台にいた母親と妹がとにかく心配で……、1日に2回は連絡をとっていました。1回は電話、1回はメールでした。ただ、現地の電気供給にも不安があり、妹の携帯電話が使えなくなるといけないので、必要最低限にしていました。当時、私はバイトをしていまして、父親も仕事に日々行っていましたので、家の中のことをやって、母と妹の帰り方をなんとか探す、という状態が続きまして、「あー私、しっかりしなきゃ!」と強く思いました。ようやく帰る手段が見つかって、母と妹が1週間後に帰ってきた時には、本当に安心しました。「よかったね」と泣きました。
●ボランティア活動をできないジレンマ、でも家族が一番大事:震災の数カ月前なんですが、浦安市内の青少年や子どもたちに視点をあてて地域を活性化させようというボランティア活動をする市民活動団体を作ったんですね。それでボランティア活動に意欲を燃やしていたんですが、母と妹がこんな状況になってしまって、正直、ボランティア活動をするどころではなくなってしまいました。母親にPTSDの症状が出ていまして、あまり外には行かないでくれと言われていたこともありまして……、やっぱり自分の家族がちゃんとしていないとボランティア活動といったことも満足にはできないんだな、と感じました。じつは今もまだ母は完治していないんですが、やっぱり家族のことが一番大事なんだなと、その時に強く思い知らされました。
●新町の友人に水を提供する:私の住んでいる元町のエリアは液状化現象もなく、インフラ関係も問題がまったくなく大丈夫でした。大きな被害は特になかったですね。ただ、新町に住んでいる友人から「お水をくれ」という連絡がきて、家中のペットボトルをかき集めて水を入れました。友人が持ってきたペットボトルにも水を入れて、全部提供しました。
●入庁式のあいさつは「ごめんね、土日ないから」:その年の春、入庁式だったんですが、式自体がなくなりました。本来だと文化会館のホールで行なうそうなのですが、普通の部屋に集まって、はじめに人事課の担当の方から謝られたんですね。「ごめんね、土日ないから」と。それで、男性陣は泥かき、女性陣は便袋の作成をしました。その後2カ月間、人事課付けでの活動になったのですが、みんな「当たり前だよね」という感じでやっていました。周りのみなさんからは「大変だったでしょ」とか言われましたが、社会人一年目なので「仕事とはこういうものだ」というふうに感じることしかないので、自分のなかではそんなに大変ではなかったんです。
●妹の大学入学式で、ようやくひと段落:プライベートで本当に落ち着いたなというのは、5月に入ってですね。震災の影響で妹の入学式が5月になったんです。妹が大学の入学式を終えて、ようやく安心しました。●出かける時は行き先を必ず伝える:母と妹の件があって以来、出かける時は、どこへ行くのか行き先を必ず家族に伝えるということを徹底するようになりました。
●防災グッズは、すべて家の玄関前:家の玄関前が、すごいことになっているんです。あれ以来、防災関連のテレビ番組があると母親はすべてチェックして、何が必要かと常に考えています。玄関前の防災グッズはものすごい量になっていまして、ラジオや懐中電灯、着替えなどを入れたリュックを一人につき1個、それに飲料水のペットボトルやレトルト食品などが入ったダンボールが全部で10箱ほど。賞味期限は定期的に必ずチェックをして常に新しいものを入れています。もし万が一何かがあって家が潰れた場合でも、「すべて1箇所に固まっていればひと目見てわかるから」という母親の指示で、こうなりました。