浦安鐵鋼団地協同組合様の体験談 復旧期
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浦安鉄鋼団地 震災体験談(復旧期について)
PDF版
インタビューを書き起こした記録です。
ファイルサイズ 197KB
コンテンツ番号 UT00000211
説明・要約
■復旧期について
第二鐵鋼団地は下水が復旧するのが遅かったこと、特に私は市内に住んでいたので、そっちも下水がつかえなくて、これが一番精神的にきつかったですね。会社でもきれいに普通に流すトイレが使えない、家でも使えない。水とか、食べるとかは外食なんかでもできるんですけれど、流すのができないというのはこんなに辛いものかと感じました。そういうように、浦安市で被害を受けたところは精神的にきつかったです。 後は、ガソリンがなかなか給油ができるところがなくて、あってもすぐ並んで終わってしまうという状態がありました。最終的にはそんなに大きくは影響しなかったですけれど、運送業者が、ガソリンがなくて一週間くらいで配送はできなくなってしまうかもしれないと言っていました。社員などは、電車で通勤していたので、それほど大きな影響はなかったと思います。 営業についていうと、当社では液状化の被害は周りもそれほどなかったので、クレーンも動いて、作業はそのままできたんですよ。
今回の震災では、隣り合っていても、それぞれ被害状況は全然違うんですよね。内容も、同じ鉄の中でも、扱っているものが違うと、協力しあうといってもなかなか難しい。同じものを扱っているところであれば、何かできるかもしれないけれど。たとえばこの四社でもみんな違うのです。困ったからやってくれといってもできないです。 クレーンとかが止まったので何日か出荷できなくなって、とりあえず応急手当をして直したのですけれど、やはり地盤が液状化で水がでたりなんかして、鐵鋼団地にどこか空いている倉庫はないかということで、そちらに移せるものは移したり、違う地域の営業倉庫に移したり、そういう事を余儀なくされました。
組合で斡旋をしたんです。空いているところありませんかって。そんなに何件もはありませんけどね。在庫品や機械を一時的に置く場所がないと地面が直せないのです。そこで、事務局が動いてそういう斡旋事業はしました。
計画停電をやられたのは大変でした。はじめは浦安は市長がかけあって計画停電はないという話だったんですが、急にやるという電話が入ったので。本当かどうかって聞きにいったら、やっぱりどうしても計画停電をやるっていうのです。それがお昼前でしたが、2時から計画停電だというんですよ。うちにはパトカーがあるので、それでアナウンスしながら、計画停電になりますよって回りました。ファックスしても間に合わないし。知らないで作業していたら、クレーンなんか全部止まってしまって、操業ができない。吊りっぱなしだったりしたら大変なことになってしまうしね。
たとえばお客さんのところに配達にいくと、自分のところは動いていても、先方が停電だと,配達もできない。全く仕事にならないんですよ。あれはやられるときついだろうと思いますね。
僕のところは、地上から四階くらいのところに事務所があったので、余震も含めて抜本的な対策をとろうというので、事務所を浦安の駅前に移しました。計画停電と、油の問題は大きかったですよね、運送会社も油を少しそちらから工面してくれれば走ります、みたいな事を言われました。我々は復興に携わる仕事もやっているわけですよね。そこが止まっちゃうと復興もままならないだろうということで、鐵鋼団地の中の理事会でも、優先的に油を回してくれと要請しようかという話もありました。 風評被害というか、採用はしにくくなりましたよね。そういう事もあって駅前に事務所を移しました。そこであれば安心かなという。そうでもないとなかなか人が採れなくなってしまった。
重量物を扱っているところにとっては、基礎から工事がしてあるのがゆがんでしまう、いわゆるラインがゆがむと、抜本的な工事にはものすごいお金がかかるんですよね。業種によってはやり直すまで何年もかかったところあるでしょう。扱っているものによってもずいぶん違いますね。 となりの倉庫が液状化でぐじゃぐじゃ、こっちの倉庫は比較的被害も少ない、全く被害のないところもあるし、そういう意味では第一鐵鋼団地の方がひどかったのかな。それに比べれば第二鐵鋼団地は比較的ましだった。液状化をあまり配慮しないで埋め立てた地域と、あとからの時代多少配慮して埋め立てた地域とでは、埋め立ての段階での技術の差がでるわけじゃないですか。差があるというのはこたえますよね。住宅でも、埋め立て地の被害がひどかった中では、日の出の方は住宅地でもだいぶ配慮したって聞いているけど。
市内の自宅に帰ったら庭も含めどろだらけ。基礎もゆがんだので、ジャッキアップしました。塀なども崩れていましたから、歩行者に被害があるとまずいので、やり直しました。第一期埋め立て地は一緒ですが、あれは不公平というかなんというか。
不公平という点では、当社も第一鐵鋼団地だったものですから、事務所が傾いて、工場もクレーンも、ダメになりまして。応急的にですが直すのに数千万かかりました。それに対する補助なども一切なくて、非常に厳しい経営状況に一時陥ったのは事実であります。
地震後困ったことは、食べ物がなかったことです。そういう経験がなかったものですから、地震の後、土日をはさんで月曜日に出社したら、当社の自動販売機の三台とも何も商品も補充もなくて、水などには困りました。幸い全国から、知り合いがいろいろな救援物資を個人的に会社に送ってくれたので、トイレットペーパーとか、そういうものに関しては助かりました。
地震の当時、困ったのは帰宅の判断です。電気はついていたのでテレビでニュースをつけますと、一時間から二時間すると東北の津波の映像が頻繁に流れてきました。ここも海岸なので、ここにも来るんじゃないかと心配になってしまって、そういう情報がまだなかったのですから帰宅の判断に困りました。ただ、帰ろうと思ってもこの道路も一杯で車がでられなかったものですから。今後はそういうこともよく話し合って、訓練していきたいと思います。
通信に関しては電話も携帯もすべてダメだったんですけれども、営業でスカイプを使っていまして、スカイプに関しては、非常に有効で、社員との連絡はすべてとれました。今で言うとラインですとか、そういうものをうまく使いながら対応していきたいと思います。
当社のほうは多分この中で一番被害がひどかったんじゃないかと思いますが、まず、第一倉庫というのがありまして、こちらは地中八メートルの杭を打っていたんですが、そこがおかしくなりまして、結局地中で横に梁をいれる工事をして、土質改良、それからアスファルトで倉庫内を整備しました。 一番ひどかったのが工場のあるところで、そこは事務所といっしょでしたので、最終的には工場は建て替えなければいけない、事務所も傾いているのでこれもなんとかしなければいけないということになりました。古い建物は建坪率が80%あったんですけれども、まともにやりますと今は65%なのです。事務所棟と工場棟を一緒に建てると小さくなってしまうと言うので、事務所は新浦安の貸しビルに引越しました。 新しい倉庫を建てることになりましたが、建坪率65%ということで、分不相応にりっぱな庭のついた倉庫になりました。工場もここでは溶断機などの精度が出ないので、茨城に工場が別にありますから、そちらに集約して、今はこちらは倉庫だけという形にしました。その倉庫ですが、もう懲りましたので新築と言うことで地中65メートルまで杭を打ちまして、コンクリートもかなり厚いものにして、ここだけは絶対大丈夫というようなことにしました。 第二、第三倉庫の方は古くて手もつけられないので、地盤改良と、一部応急措置をおこなっているのですが、未だに沈下しているようですね。私たちも厚板扱っていまして、とにかく重たいので、これがおさまらないと落ち着かないです。補助金の申請とかいろいろしたんですがどれもダメでえらいめにあいました。