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浦安鐵鋼団地協同組合様の体験談 震災当日

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浦安鉄鋼団地 震災体験談(発生当日の出来事)

PDF版

インタビューを書き起こした記録です。

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コンテンツ番号 UT00000210

説明・要約

あの日、わが社は

  B社 当社は、第二鐵鋼団地ですが、6メーターのクレーンがありまして、その上、10メーター位のところに事務所があったんです。 だから揺れは相当なものでして、ちょうどH鋼の建屋の柱がスプリングみたいな状態になるのです。机も全部ずれて、パソコンは全部落ちて、多分、いろいろもらった陶器の飾りものみたいなものが割れたりしました。女性陣は地震が起きたときには、外に出ると言うよりはまずへたり込んでしまっている状態でした。揺れが終わってからみんな外へ出ました。その段階で電車は止まるだろうと分かっていたので、残っている男性従業員が、事務職員を帰そうということで各方面に配車を組みました。その時にはまだ渋滞などはなかったですからね。地震が2時45分だったのですが、3時30分すぎには車は出発していました。その車は千葉方面や松戸方面から夜の8時頃に帰ってきました。事務職はまず全員帰しました。渋滞がその時点で相当ひどかったので、社に帰ってこようとしても、上りは帰ってこられるのですが、下りはもう全然だめでした。ぼくも午前2時半頃までは会社にいたのですが、出たときには幹線道路が満杯です。特に橋に全部集中しているので、一番困ったのは橋を渡るところでした。地元なので裏道は分かっているので、裏道の横に出るのですけれど、横道から橋を渡るまでは2時間近くかかりました。そこへ出るまではほんの数分で行きましたよ。幹線をおりてからは20分もあれば帰りましたので、橋がものすごく混んだということですね。でも走っている最中も、歩道には結構人が歩いていて、皆さん歩いて帰られるのかな、と心配してみていました。 困った事は二つくらいあって、一つは液状化ででた砂の処理。第一鐵鋼団地と第二とでは管轄が違っていたんですよね。第二が企業庁だったのかな。だから砂の処理がなかなかできなかったものですから、風の強い日には砂ぼこりでとてもじゃないけど大変でした。 もう一つは、借りているところについて、貸し主と借り主の間の状況をどう措置するかではもめましたね。借りたことによっての瑕疵なのか、持ち主負担になるのか、ということだとか。借り手側は危ないのでここまで直してくれという事に対して、貸し手側としてはそれで大丈夫でしょうといった問題でなかなかうまくいかない。倉庫の機能だけではない、付帯している事務所兼用の小屋なんかも借りているんですが、それが傾いてしまって、全然使い物にならないのだけれど、そこまでは手が回らない。けれども、そうするとファックスが動かないから実質的には仕事にならないといった問題がありました。 復興に関わるいろいろな問題はあったのだけれど、当社はそんなに大きな被害はなかったので、業者さん含めていろいろなサポートもあって、自分のところで自由になるものは手配して、敷板を敷いて、仮でトラック通れるようにしました。二三週間後には業者が入って、復興工事まで始め、三ヶ月後にはほぼ復興させました。

  C社 第一鐵鋼団地で鋼材の加工販売をしています。発生時に何をしていたかということですが、金曜日でしたので、通常業務で業務をしておりました。たまたま組合で二〜三週間前に、震災についての講演会をしておりまして、当社もちょうど三日くらい前に朝礼で、ここで関東大震災が起きたらこうしようね、ということを話し合っていました。角地で交差点が広いので、また、高いところもないので、地震が起きたら、交差点のまん中、会社の前に集合しましょうということをたまたま申し合わせていたので、会社の前にみんなそろって避難しました。ただ、見ていると、二度目の地震の時には電信柱が半分くらいすうっと落ちてきましたし、当社の建物は三階なんですが、それも斜めに傾いてしまったり、設備が斜めになってみんなぐちゃぐちゃになってしまって、目で見てこれは尋常じゃないという事実を目の当たりにしました。入ったばかりの新卒の若い社員が地震後二人辞めてしまいました。一人はパニック症候群になってしまって、地震の後、十日間ごはんが食べられなくなって、結局辞めたというのと、もう一人は東部の方から来ている女の子だったのですけれど、両親が浦安は危ないから会社を辞めろというので、本人の意に反して、入社して一年たらずで辞めざるを得ませんでした。このように、若い社員が二人、会社からいなくなったというのが最大のショックでした。 何を持って逃げたかといいますと、当社の避難場所が目の前だったものですから、何も持たず、手ぶらで逃げました。しかし、周りの様子としては、液状化で黒い水が噴き出す中では何もできなかったですね。呆然と地震が収まるのをみんなで震えながら待ち続けたというのが実態です。会社の建物が傾いたものですから、今後どうしようかとか、頭がいっぱいでしばらくは仕事にならなかったのです。次の日が土日で、何人かが出てきて砂を排除するのが精一杯でした。水は止まったのですが、幸い電気は止まらなかったので、そこだけは非常に助かったと思っています。

  D社 私どもの会社は体育館の前にありまして、建物としては事務所棟と工場、第一、第二、第三倉庫というのがあります。震災の時には私自身は会社にいなかったのですが、会社に残っていた人間の話を聞くと、ぐらっとして、エライ大きくて、外に出ると電信柱の脇から水が噴き出して、大変怖い思いをしたということです。幸い、体育館がそばでしたので、そちらに一時避難していました。やはり交通機関がだめでした。当社には営業車が三台あったので、4時か5時くらいにはそれで千葉方面、北部方面、神奈川方面というように分乗して、みんな一度帰りました。私自身は車で中野の方にいました。ぐらっと来たのですが携帯電話がつながらないので、公衆電話から会社に電話しました。ところが、会社がつぶれそうだとかえらいことを言われるので、とりあえず帰らなあかんなと思って、帰ろうとしたんです。皇居のところまではすうっと来たんですが、そこからはぴたっと止まって動かなくなったので、また電話をしたところ、もうみんな家に帰るということだったので、じゃあ翌日土曜日に見に行けばいいかなということで家に戻ることにしました。家が都内なんですが、皇居から自宅まで渋滞で6時間くらいかかりました。えらいめにあったということです。 会社の被害状況ですけれども、事務所棟が傾きまして,ゴルフボールを置くとコロコロと転がる、ドアも自動ドアで簡単に閉まっちゃうという形です。あと、同じ敷地にあった工場棟が倒壊レベルで2とかで、クレーンも動かないというような状況になりました。第一倉庫の方も同じくゆがみがあって、クレーンが一部動きが悪い危険な状態であった。第二第三も、古い倉庫なので、同じような状況でした。地面の方からも水が一杯あふれていて、倉庫も水浸しになっている部分がありました。初日と言えばそういうことですね。復興まで当社は一年以上かかりました。結局建て直すことになりました。

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