浦安市立図書館

地域資料で調べよう!さがそう 浦安の成り立ちと歴史 〜江戸時代 広重の版画を見る〜(第3回)

<全4回>地域資料で調べてみよう! 「浦安の成り立ちと歴史」(第3回)

*図書は『』、地図や版画は<>、図書に収録されている項目や見出しは「」、引用部分は で表示しています。

今回は、地域資料だけでなく、インターネットで公開されている絵図と版画を使用しています。使用する画像は、国立公文書館デジタルアーカイブの[デジタル画像等の二次利用について]と国立国会図書館イメージバンクの[電子展示会利用規約]に基づいて、掲載しています。

*文中の『』で表示されている図書のリストは、こちらからご覧いただけます。→この連載で使用する参考図書リスト

〜第3回 江戸時代 広重の版画を見る〜

 前回(第2回)は、江戸時代に描かれた絵図(地図)などを使って、江戸時代の浦安の姿を見ました。今回は、広重の<名所江戸百景>に収録されている<堀江ねこざね>の謎に迫ります。

■歌川広重<堀江ねこざね>の橋の謎

<名所江戸百景 鎧の渡し小網町>

<名所江戸百景 鎧の渡し小網町>国立国会図書館イメージバンクより

 前回、ご紹介した『江戸近郊道しるべ』が刊行されて約20年が経った頃の事です。安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて、浮世絵師の歌川広重が、<名所江戸百景>を刊行しました。収録されている作品に、たくさんの蔵が並んだ河岸と水路を行き交う船を描いた<鎧の渡し小網町>があります。小網町は、前回ご紹介した、堀江町(現在の中央区小舟町辺り)の隣町で、『浦安町誌 上』p.4によると、堀江村から移り住んだ人が、網乾場(漁網を広げて干す場所)として使用したとされています。この小網町に、前回の『江戸近郊道しるべ』で村尾嘉陵が船に乗った行徳河岸があります。にぎやかで栄えているようすがよくわかります。

<名所江戸百景 堀江ねこざね>

<名所江戸百景 堀江ねこざね>国立国会図書館イメージバンクより

<名所江戸百景>には、<堀江ねこざね>(「堀江、根古ざね」)も、収録されています。左遠方に富士山が描かれ、陸地には、ヨシ(葦)と思われる植物が茂り、手前の砂州のような場所では、猟師が鳥を狩猟(鴨猟?)しています。また、土手の高さから、海抜が非常に低いことがわかります。中央を右上から左下に流れる境川と思われる川に2つの橋が架かっていますが、橋の名前はわかりません。『浦安町誌 上』p.151の「境橋」によると、この橋は、本町で一番最初に東学寺前に架けられた橋で、堀江村と猫実村を結ぶ唯一の橋として、天保年間(1830〜1843年)に架設されたものであり、古くは、'東堺橋'といった。とあります。この年代から推測すると、境橋は、<堀江ねこざね>が描かれる約20年前に架けられた計算になり、前述の『江戸近郊道しるべ』(1836年)が刊行された頃と重なります。

さて、画中の2つの橋のうち、どちらかが境橋(東堺橋)でしょうか?猫実村(川の右側)に、ヒントとなる松林に囲まれた鳥居が見えます。『江戸百景今昔』のp.246や『広重TOKYO 〜名所江戸百景〜』p.226など、<江戸名所百景>について書かれた本では、これを豊受神社としています。現在の豊受神社と境橋との位置関係では、東京湾(版画の手前)側から見た場合、境橋の方が旧江戸川寄り(豊受神社より奥)ですので、奥に小さく見える橋が境橋ということになります。

浦安市の境橋や江川橋と豊受神社の地図上の位置関係

国土地理院地図(電子国土Web)からダウンロードした地図画像を加工しています

もう一度、『浦安町誌 上』に戻ると、p.153に江川橋から3、400メートルぐらい下流のところが、巳の方向(南南東かそれよりやや北)に三分ぐらい曲がっているところから、その付近を巳の三分というようになった。とあり、江川橋から400mほど下流の「巳の三分」は、現在の市役所庁舎近くの東水門辺りに該当します。したがって、現在の江川橋からの距離と絵の距離感は、ほぼ一致しているように見えます。

そして、「巳の三分」のカーブは、『浦安市郷土博物館調査報告第3集 のり2 ちば海苔いまむかし』p.26に掲載されている明治40年(1907年)の<東京府従多摩川至江戸川海苔採場実測図>(以下、実測図)で、東水門から東京湾側は、今川として描かれ、<堀江ねこざね>の右下方向に向かう流れに非常に似ています。

この実測図では、現在、行徳にある市川野鳥の楽園(行徳近郊緑地)付近から、海岸線沿いに字三角(大三角)方向へ、堀江を横切っている道がみられます。<堀江ねこざね>では、右方向から人が歩いている道がこの手前の橋につながっているように見えます。実測図と<堀江ねこざね>の道が同一とすると、海岸線は、「三番土堤」(現在の消防本部裏から浦安公園を経て東水門付近辺りまで)となり、手前にみえる橋をその道が通っていた時期があった可能性が考えられます。つまり、現在の東水門付近に橋が架かっていたことになります。実測図の刊行が1907年、<堀江ねこざね>が1858年です。明治維新(1868〜1889年)の前後には、ここに橋がかかっていたのでしょうか?

次回最終回は、この橋が実在したのか、図書館の資料を使って、さらに調べていきます。

第3回 掲載:令和6年3月6日

第2回 「絵図でさがす浦安」は、こちらから

   最終回 「堀江ねこざね 橋の謎」は、こちらから

レファレンスサービス

Copyright (C) 2022 浦安市立中央図書館