浦安市立図書館

地域資料で調べよう!さがそう 浦安の成り立ちと歴史 〜堀江ねこざね 橋の謎〜(最終回)

<全4回>地域資料で調べてみよう! 「浦安の成り立ちと歴史」(最終回)

*図書は、『』、地図や版画は<>、図書に収録されている項目や見出しは「」、引用部分は で表示しています。

*文中の『』で表示されている図書のリストは、こちらからご覧いただけます。→この連載で使用する参考図書リスト

〜最終回 堀江ねこざね 橋の謎〜

 前回は、歌川広重の<名所江戸百景>に収録されている<堀江ねこざね>の橋の謎について調べ始めました。橋の謎は、解けるのでしょうか?

 <堀江ねこざね>で一番手前に描かれている橋は、何橋なのか。江戸の終わりから明治の初めにかけて、境橋より東京湾側に橋が架かっていた記録がないか、『浦安町誌 上』(昭和44年発行)より、さらに古い大正6年(1917年)に発行された『浦安町誌』(昭和59年復刻版)を閲覧しました。(この『浦安町誌』は、昭和に発行された町誌との混同を避けるため、ここでは、『浦安町誌(大正版)』とします。)p.236に、境川に架かる橋についての記述が、境川ハ町ノ中央ヲ流ルタメニ堀江及猫實ヲ区分セリ是ニ三筋ノ橋ノ設アリ江戸川ニ近ク町役場前ニ架設シアルモノヲ浦安橋トイヒ明治三十六年十月ノ架橋セラル・・・(中略)記念橋ハ大正四年八月架橋セラレタリ 境橋の架設ハ遠ク徳川時代の頃ト(?)ナレドモ詳ニ知ルコト能ハズ再三再四掛替及修繕ヲ加ヘテ今日ニ及ベリ(大正四年九月修繕)とあり、境橋の部分を簡単に訳すと”境橋が架けられたのは江戸時代だが、詳しいことはわからない。三度も四度も架け替えたり修繕を加えた”とあります。明治維新から約50年ほど後の、大正6年(1917年)の記述では、境川に架かる橋は、浦安橋(現在の浦安橋とは異なる)、記念橋、境橋の3つとされています。前回(第3回)で調べた1910年刊行の<東京府従多摩川至江戸川海苔採場実測図>(以下、実測図)には、三番土堤が記されているにもかかわらず、7年後に発行された『浦安町誌(大正版)』には、記載がありません。橋は、架けられていなかったのでしょうか。

 <名所江戸百景>が刊行された前年の安政2年に、安政江戸大地震が起こっています。『歴史のなかの地震・噴火 過去がしめす未来』p.192「四−四 安政江戸地震」によると、安政2年10月2日(1855年11月11日)夜に発生して、江戸に甚大な被害をもたらした地震の震源は、東京湾北部付近という説があり、推定で最大震度6強、翌月も余震が続いたようです。収録されている<安政江戸地震の震度分布図>を見ると、現在の墨田区や江東区のあたりが大きく揺れ、江戸市中では、建物の倒壊と火災により多くの犠牲者が出ています。震源に近いと思われる堀江や猫実にも同様の被害をもたらしたと思われますが、この地震で謎の橋が落ち、民家や豊受神社の社殿にも被害が出たのでしょうか?

『浦安町誌 上』によると、豊受神社の社殿は、1850年(嘉永3年)に、たび重なる風水害により破損したので、現在(1969年(昭和44年)当時)の社殿を建築したとされています。嘉永3年は、安政江戸地震の5年前になり、この年に改築されていました。改築して間がなかったゆえに、地震の揺れに耐えることができたのかもしれません。その後の、関東大震災を含めて、再築される昭和48年(1973年)(『浦安 文化財めぐり』p.15に掲載)まで、幾多の災害を耐え抜いてきたのでしょうか?もし、そうならば、広重は、改築されて間もない頃の真新しい社殿を描き、描かれた社殿そのものが昭和48年まで、残っていたことになります。

一方、橋はどうでしょうか?境橋より東京湾側にさらに橋が存在し、地震の揺れによって橋が崩れた可能性も十分あると思われますが、「安政江戸地震」が原因で橋が落ちたという記録は、見つかりませんでした。

広重が亡くなったのは、安政5年(1858年)で、享年62歳でした。死因は、コレラとの説があります。『江戸のコレラ騒動』によると、安政大地震で大きな被害が出た3年後の安政5年に、即死病といわれたコレラが江戸を襲いました。コレラに罹患すると3日で死ぬといわれていただけに、病に徐々に侵されて、数年に渡って弱っていたわけではないと考えられます。安政江戸地震の前に堀江や猫実を訪れ、数年を経たのちに記憶で描いたとすると、地震前には、記録にない橋が架かっていたのか。あるいは記憶で描いたゆえに実際の風景とは、異なることになったのかもしれません。

残念ながら橋についての記録は、図書館所蔵の資料をさがしてみても、見つかりませんでした。ただ、豊受神社については、地図にも記録が残っています。第2回で調べた<葛西筋御場絵図>では、海岸線に近いところに鳥居のマークと「神明」の表記が確認できます。豊受神社は、明治初年まで神明宮社と呼ばれていました。現在でも、豊受神社にほど近い、やなぎ通り沿いに、神明裏という名の路線バスの停留所があります。

ところで、<名所江戸百景>なのに、なぜ江戸ではない堀江、猫実が描かれたのでしょうか?この疑問は、前述の『歌川広重の声を聴く』のp.235「第10章 「名所江戸百景」を広重の「思い」とともに読み直す」の中で、「「堀江ねこざね」は、なぜ描かれたか」として、考察されていますので、ぜひご覧ください。

ちょっと一服

広重は、「堀江ねこざね」を、どこから描いたのでしょうか?川の角度などを考え合わせると、その視点は、のちの海楽園あたりから(当時は遠浅の海)でしょうか。『浦安市史 生活編』p.38の青ギス釣りの写真に写っているように、脚立に座って見た風景を記憶していたのかも知れません。

 なお、江戸時代の記録は、他にも、いくつか残っています。例えば、『浦安市郷土博物館調査報告 第九集 江戸時代の浦安@ 「下總行徳領獵師種蠣記録」』(下総国葛飾郡堀江村漁業出入留書)があります。これは、堀江村に残っていた古文書類を書き写したものとされているもので、奉行所への願書や証文を読み解いた貴重な資料です。また、『「葛飾誌略」の世界』でも、江戸時代初期の頃の浦安に関することが簡潔に記されています。

■明治時代以降

明治11年(1878年)(村尾嘉陵が亡くなって37年後、歌川広重が亡くなって20年後)に、堀江村、猫実村、当代島村は、千葉県東葛飾郡に属することになりました。そして、明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行にともない、堀江、猫実、当代島が合併して、浦安村が誕生しました。その後、町から市へと発展を遂げ、現在に至ります。昭和時代に行われた土地改良や埋立てによって、微高地ゆえの浸水の恐れも激減しました。

■終わりに

いかがでしたでしょうか?このページでは、地域資料を使って、現在の浦安が誕生する前の歴史を調べてみました。江戸時代の出来事など、さらに詳しく調べるには、『浦安市史 まちづくり編』や『浦安物語』なども、おすすめです。図書館では、ここで紹介した資料以外にも、多くの地域資料を所蔵していますので、ぜひご活用ください。

最終回 掲載:令和6年4月5日

中央図書館のレファレンスカウンターでは、このページのようなちょっとした疑問を解決するために調べものをする方へ、参考にしていただける資料をご紹介するなどのサポートを行っています(レファレンスサービス)。レファレンスカウンターやEレファレンスなどで、お問い合わせください。 レファレンスカウンターは、火〜金曜:10時から17時、土日祝:10時から18時 E−レファレンスは、こちらからご利用ください。

第3回 「江戸時代 広重の版画を見る〜」は、こちらから

レファレンスサービス

Copyright (C) 2022 浦安市立中央図書館