略歴・デビュー作
生い立ち
1907年11月14日スウェーデンのスモーランド地方、ヴィンメルビーの郊外ネースの教会付属の農場で生まれる。父はサミュエル=オーガスト・エリクソン。母はハンナ。
4人兄弟の2番目。スモーランド地方での子ども時代の思い出は、「やかまし村」「エーミル」「おもしろ荘」などのシリーズの作品に色濃く反映している。
文章を書くのは子どものころから得意だったが、作家になど絶対ならないことを「決心」していたという。
初期
1925年、18歳にして未婚のまま妊娠。地元にいられなくなってストックホルムに移住し、翌年コペンハーゲンで出産。働きながら長男ラーシュを養う。
1931年、勤め先で知り合ったステューレ・リンドグレーンと結婚し、リンドグレーン夫人となる。
1934年長女カーリン出産。1941年、7歳の彼女のために語った物語を清書したものが、のちの1945年に『長くつ下のピッピ』となった。
1944年にラーベン・オク・ショーグレン社の少女文学懸賞に応募。『ブリット=マリはただいま幸せ』で第二位入賞。職業的な作家になるきっかけとなる。
この時期、「ピッピ」に代表される、子どもらしい冒険心を奔放に解き放った作品が次々生まれる。しかし、この背景には戦争の不安や夫の病気などもあるといわれる。
1946年からラーベン・オク・ショーグレン社に編集者としてパートタイム勤務。以後1971年に退職するまで、作家と編集者の2足のわらじを履くことになる。同社は、「ピッピ」をはじめとする彼女のほとんどの作品を刊行。スウェーデンを代表する大手児童出版社に成長した。
中期
1950年代に入ると作家としての名声も確立し、次々と作品を発表するようになる。
1958年には国際アンデルセン賞を受賞。一方私生活では、夫の死や、子どもたちの独立などを経て一人で暮らすようになる。幼馴染だったマディケン(「おもしろ荘」に同名の主人公が登場する。)の死など、周囲の友人たちも次第に鬼籍に入り始める。
作品にも、当初の奔放な冒険ものや、子ども時代の楽しい生活を扱ったものばかりでなく、『ミオよわたしのミオ』『小さいきょうだい』など、孤独や、死の影のある、思索的なものが現れるようになる。
晩年
1976年69歳の時、新聞紙上で「ポンペリポッサ物語」を発表し、政府の課税政策を批判するなど、社会的発言を強める。動物保護活動や、文化政策など、数多くの分野で社会のオピニオンリーダーとして活躍した。
1992年、視力の低下により創作活動を終えると発表したが、社会的な発言・活動は晩年まで続き、大きな影響力を持ち続けた。スウェーデンの国民的作家として老若男女に愛され、ノーベル賞の呼び声も高かったが、結局受賞には至らなかった。
1994年「もうひとつのノーベル賞」とも言われるライト・ライブリフッド賞特別賞受賞。
2002年1月28日死去。享年95歳。