浦安市立図書館

略歴・デビュー作

慶応3年
4月15日、和歌山城下橋丁に南方弥兵衛、すみの次男として誕生
明治6年
雄小学校入学。10歳頃より、『和漢三才図会』『本草綱目』などを筆写
明治12年
和歌山中学入学
明治16年
中学卒業後、上京。共立学校入学
明治17年
東京大学予備門入学。同期生に夏目漱石、正岡子規、山田美妙、秋山真之ら  父酒造業創業
明治19年
予備門退学、帰省。家族より外遊の許可を得て渡米
明治20年
サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジ入学  ミシガン州ランシングの州立農業専門学校へ転入
明治21年
州立農業専門学校退学  アナーバーへ移り、植物採集を本格的に開始
明治24年
フロリダ州ジャクソンヴィルにて植物採集。キーウェスト島、キューバ島にも滞在
明治25年
渡英。ロンドンにて父の死を知る
明治26年
大英博物館のフランクスとリードと知り合う
『ネイチャー』に最初の論文「東洋の星座」を発表。以降数多くの論文が掲載
土宜法龍と会い親交を深める
明治28年
大英博物館の図書閲覧を正式に許可される
『ロンドン抜書』を書き始める
大英博物館東洋書籍部長ダグラスを訪ねる
明治29年
母死去
ロンドン大学事務総長ディキンズと親交を結ぶ
明治30年
ダグラスの室で孫文と出会い親交を結ぶ
大英博物館閲覧室にて殴打事件を起こし、利用停止処分を受ける
明治31年
閲覧室で女性の高声を制する事件を起こし、大英博物館から追放される
明治32年
『ノーツ・アンド・クエリーズ』に投稿開始  『ロンドン私記』執筆
明治33年
帰国  和歌山の実家に滞在後、和歌浦の愛宕円珠院に移る
明治34年
孫文と和歌山にて再会  勝浦で南紀植物調査を開始
明治37年
3年にわたる南紀植物調査を終え、田辺に移る
明治39年
闘鶏神社の宮司の娘、田村松枝と結婚
明治40年
『田辺抜書』執筆開始
長男熊弥誕生(1960年没)
明治42年
『牟婁新報』に神社合祀反対の最初の文章を発表
神社合祀反対運動
明治39年12月、政府は神社の国家管理化を推し進め、1町村1社を標準とした神社合祀令を発令した。これにより明治の末には、全国の神社の7万余社が統廃合によってなくなった。自然が破壊されたばかりでなく、合祀令を利用して廃社した神社の樹木を売って儲けをたくらむ役人や神官もいた。伊勢神宮のある三重県と熊野三山のある和歌山県の神社の減少が著しく、この状況を憂いた熊楠は明治42年9月、反対運動を開始する。鎮守の森の樹木の伐採が地下水系に与える悪影響、貴重な生物の死滅、災害、地域の人々の生活文化の荒廃等を説き、政府や県、役所を相手に孤軍奮闘した。
明治43年
神社合祀推進県史に面会しようと夏期講習閉会式に乱入。家宅侵入罪で拘留
『牟婁新報』掲載の「人魚の話」が風俗壊乱罪で発禁、罰金刑をうける
明治44年
柳田國男と文通開始
柳田が『南方二書』を識者に頒布
長女文枝誕生(2000年没)
大正3年
『太陽』にて「十二支考」の連載開始
大正5年
中屋敷町に約400坪の住居を購入。生涯の住処とする
大正21年
自宅の柿の木より発見の新種の粘菌が”ミナカテルラ・ロンギフィラ”と命名される
大正11年
南方植物研究所設立の資金調達のため東京に滞在。旧知を訪ね交流
大正15年
『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』を出版
昭和4年
昭和天皇を神島に迎え進講し粘菌標本進献
昭和天皇への御進講
昭和天皇は、皇太子時代より生物学への関心を深めており、粘菌にも興味を持っていた。熊楠の粘菌研究の高弟で親しい友人である小畦四郎は、大正14年、当時皇太子だった昭和天皇に、粘菌の標本と目録、表啓文、熊楠による図譜と解説を献上している。昭和4年6月1日、熊楠は、船で南紀に行幸された若き昭和天皇に、御召艦長門(ながと)の一室で粘菌学を御進講申し上げた。その際、粘菌標本110点等を献上し、海の蛇であるウガ、キューバで発見した地衣、菌類の標本や図譜320点を御覧に入れて説明した。熊楠の人生の中で最大の栄誉であった。熊楠が、仕立て直した古いフロックコートを着て直立し、大きなキャラメルの箱に入れた標本を天皇に献上したことは話題となった。昭和天皇は、昭和38年に、熊楠を思い出して詠んだ歌「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を発表した。
昭和11年
保護に尽力した神島が国の史跡名勝天然記念物に指定される
昭和16年
12月29日死去。田辺校外の真言宗高山寺に埋葬される
昭和22年
ミナカタ・ソサエティ創立
昭和40年
和歌山県白浜町に南方熊楠記念館開館
平成18年
和歌山県田辺市に南方熊楠顕彰館開館
特集
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