浦安市立図書館

略歴

1909

12月21日、福岡県企救郡板櫃村(現北九州市小倉北区)大字篠崎で生まれる。本名清張(きよはる)。

1910

祖父母を頼って、一家で下関市旧壇ノ浦に移る。

1916

下関市菁莪尋常小学校入学。

1917

小倉市に移住のため、市立天神島尋常小学校に転校。

1924

小倉市立板櫃尋常小学校高等科卒業。川北電気株式会社小倉出張所の給仕となる。このころから文芸書に親しむ。

1927

不況のため川北電気小倉出張所は閉鎖となり、失職。八幡製鉄や東洋陶器の文学好きな工員たちと交際。

1928

母のすすめに従い石版印刷の見習い職人として高崎印刷所に就職。

1929

文学仲間がプロレタリア文芸雑誌「文藝戦線」「戦旗」などを購読していたため、アカ狩りの小倉署に検挙され、十数日間留置される。この年、徴兵検査で第二乙種補充兵。

1933

技術錬磨のため、福岡市島井オフセット印刷所に入る。

1936

11月18日、佐賀県人・内田健次郎五女ナヲ(直子)と結婚。

1937

小倉に朝日新聞九州支社が開設、その広告版下を書く。

1938

1月18日、長女淑子誕生(この1女のほか3男を儲けている)。

1939

朝日新聞九州支社広告部嘱託、翌年西部本社広告部雇員、翌々年正社員となる。

1943

久留米の第48連隊に3ヵ月の教育召集。

1944

再召集され福岡の第24連隊に入隊。部隊は朝鮮の竜山に駐屯、衛生兵として勤務。家族は佐賀県神崎町の妻の実家に疎開する。

1945

上等兵となり、全羅北道井邑で敗戦を迎える。10月、本土送還。朝日新聞に復職、小倉市黒原に居を定める。

1948

朝日新聞西部本社広告部意匠係として勤務のかたわら、図案家として活躍。

1950

「週刊朝日」の「百万人の小説」に応募し、「西郷札」が三等に入選する。翌年、同作は第25回直木賞候補作となる。

1952

「記憶」「或る『小倉日記』伝」を「三田文学」に発表、「或る『小倉日記』伝」は翌年、直木賞候補から芥川賞選考委員会に回付され、27年度下半期の第28回芥川賞受賞が決定。

1953

「啾啾吟」「菊枕」「火の記憶」などを発表。朝日新聞東京本社に転勤。

1954

東京に転居し、家族をよびよせる。「風雪断碑」(後に「断碑」と改題)など長編1本を含む13の作品を発表。

1955

「父系の指」「石の骨」「張込み」など22の作品を発表。

1956

朝日新聞社を退社、創作活動に専念し、長編3本を含む32の作品を発表。

1957

「顔」で第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞。この年、「点と線」「眼の壁」「無宿人別帳」の連載開始。

1958

「点と線」「眼の壁」が出版され、ベストセラーになる。「ゼロの焦点」「かげろう絵図」「黒い画集」の連載、「ある小官僚の抹殺」「黒地の絵」「真贋の森」などを発表し、いわゆる社会派推理小説ブームの原動力となる。

1959

「小説帝銀事件」により文藝春秋読者賞。ほかに、「波の塔」「霧の旗」「黒い福音」など7本連載。

1960

「文藝春秋」に連載した「日本の黒い霧」によってノンフィクションの分野に進出。この年の新連載はほかに「球形の荒野」「わるいやつら」「砂の器」など7本。

1961

この年度より直木賞選考委員となる。「深層海流」「影の車」「落差」など11本の新連載を含む25の作品を発表した。

1962

「けものみち」「北の詩人」「象徴の設計」「天保図録」「別冊黒い画集」など新連載を含む22の作品を発表。

1963

「日本の黒い霧」「深層海流」「現代官僚論」などの業績により第5回日本ジャーナリスト会議賞を受ける。日本推理作家協会理事長に就任、4期8年をつとめる。「絢爛たる流離」「回想的自叙伝」(のち「半生の記」と改題)など多数。

1964

「週刊文春」に「昭和史発掘」を連載開始。以後6年9ヵ月にわたる長期執筆となる。前年からのものを含め、同時に9本の連載。

1965

「私説・日本合戦譚」「砂漠の塩」「Dの複合」などを発表。

1966

「古代史疑」を「中央公論」に連載し、本格的に古代史の領域に進出。

1967

「昭和史発掘」などの作品と幅広い作家活動により第1回吉川英治文学賞受賞。「黒の様式」など連載多数。

1968

十二指腸穿孔に腹膜炎を併発し、東京女子医大に40日間入院。

1969

「黒の図説」「象と蟻」(のち「象の白い脚」と改題)など。

1970

「昭和史発掘」を軸とする意欲的な創作活動により第18回菊池寛賞受賞。古代史関連の仕事が増える。

1971

「松本清張全集」第1期全38巻の刊行始まる。日本推理作家協会会長に就任、2期4年をつとめる。「遊史疑孝」(のち「遊古疑孝」と改題)「古代への探求」(のち「古代探求」と改題)「西街道談綺」などを発表。

1973

朝日新聞に「火の回路」(のち「火の路」と改題)を連載開始。

1974

「松本清張全集」第1期全38巻完結。

1976

毎日新聞の全国読書世論調査で好きな著者の第1位となる。「古風土記」(のち「私設古風土記」と改題)、「清張通史」の新連載開始など古代史関連の仕事量が増える。

1978

NHKの第29回放送文化賞を受賞。霧プロダクション創設。「空の城」「清張短篇新集」の連載開始。

1979

本年度から直木賞委員を辞退。「ペルセポリスから飛鳥へ」を書き下ろし刊行。「白と黒の革命」連載。

1982

「松本清張全集」第2期全18巻の刊行始まる。「岡倉天心とその『敵』」「形影−菊池寛と佐佐木茂索」「迷走地図」など。

1984

霧プロダクション解散。「読売新聞」に「霧の会議」を新連載。「松本清張全集」第2期全18巻完結。

1985

映画・テレビ企画制作の「霧」企画を設立。

1988

11月に体調を崩して東京女子医大病院に入院。近年、視力の低下になやまされる。

1990

1989年度朝日賞を受賞。

1992

「1952年日航機『撃墜』事件」を上梓直前の4月20日、脳出血で倒れ、東京女子医大病院に入院した。手術は成功し、療養生活を続けていたが、7月下旬に病状が急変し、肝臓がんと判明。8月4日死去。享年82。遺志によって葬儀・告別式は執りおこなわず、近親者だけで6日夜に通夜、7日午後に密葬。10日、「おわかれ会」が青山葬儀所で開かれ、千百余の人々が別れを惜しんだ。戒名はC閑院釋文張。

『松本清張』新潮日本文学アルバム(新潮社)藤井康栄氏による略年譜を参考にしました。
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