人間を追う
西郷札
松本清張 光文社 2002
西郷札とは、西南戦争で西郷軍が軍費調達のために発行した紙幣である。西郷軍で西郷札発行に携わった樋村雄吾は、戦いに敗れて郷里に戻るが、父は亡くなり、家は焼失、家族の行方も知れない。東京に出て車夫となった雄吾はある日、偶然に上級官員塚村の妻となった義理の妹と再会し、互いに懐かしさとほのかな恋心から時々会うようになった。その後、雄吾は恩人から西郷札の政府買上げを塚村に口利きするよう依頼される。清張が41歳の時、雑誌「週刊朝日」の懸賞「百万人の小説」に応募するために書いた処女作。作品は見事入選し、翌年には直木賞候補となった。
或る「小倉日記」伝
松本清張 新潮社 2004
小倉に住む田上耕作は、散逸している小倉時代の森鴎外の日記の空白を埋めようと思い立つ。田上青年は重い障害を持ち、思うように動かせない身体であったが、丹念に鴎外の事跡を捜索し、周囲に助けられながら、鴎外に関わりのあった数少ない生存者を訪ねて、「小倉日記」を執筆していく。しかし、時代は太平洋戦争へと向かい、貧困と彼の病状の悪化がその完成を阻んでいた…。昭和28年、清張は実在の人物をモデルにしたこの作品で第28回芥川賞を受賞した。また、清張は森鴎外に関する研究を続け、彼を題材とした『鴎外の婢』『削除の復元』なども発表した。
張込み
松本清張 新潮社 2001
東京・目黒で起こった強盗殺人事件。犯人捜査の末捕らえられた山田が、石井という共犯者がいることを自白した。石井は山田に、昔恋仲であった女の夢をよく見ると漏らしていたという。柚木(ゆき)刑事は石井逮捕のため、今は人妻であるその女の家の前で張り込みを始める。そして五日目、ついに女が動いた…。平凡な主婦の心に突如燃え上がった女の情念が一人の刑事の目を通して鮮やかに描かれており、清張ミステリーの事実上の出発点になったとも言われる作品。初出は『小説新潮』昭和30年12月号。
顔
松本清張 角川文庫 1956
井野良吉は、ようやく映画スターへの道が開けてきた新劇の俳優。俳優としての名声と地位を熱望する一方で、井野はスクリーンに自分の「顔」の場面(カット)が増えることを大変恐れていた。あの男にだけはこの顔を気づかれてはいけない。井野は、9年前のある場所で自分の顔を目撃したと思われるあの男に接触を試みるが…。初期の短編推理小説で、井野の日記を中心に話が構成されている。昭和32年に第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞。推理小説への自信を深めた清張は、この年初めて長編推理小説『点と線』に取り組んだ。
鬼畜
松本清張 光文社 2003
気弱で真面目な印刷職人竹中宗吉は、渡りの職人から小さな印刷所を経営するまでになった。事業が大きくなり、自由になる金を得た竹中は、妻のお梅の目を盗んで料理屋の女中菊代を囲い、三人の子をもうける。しかし、二重生活は長くは続かず、経営が苦しくなると、菊代は子どもを竹中に押し付けて姿を消した。勝気なお梅と残された子どもとの地獄の日々。子どもを憎むお梅にそそのかされ、竹中は鬼畜と化していく。捨てる女、憎む女、殺す男。自己の置かれる状況の変化がそれぞれの「鬼畜」を目覚めさせる。