浦安市立図書館

地域資料で調べよう!さがそう 境川の成り立ちを図書館で調べてみよう

<全8回>地域資料で調べてみよう! 「境川の成り立ちを図書館で調べてみよう」(第2回)

〜第2回  江戸川を調べる〜

  前回は、浦安の地質的な成り立ちを調べた後、昔の境川について記されている資料を探しましたが、見つかりませんでした。しかし、江戸時代に書かれた『葛飾記』と『葛飾誌略』には、行徳領のことについて、詳しく記されていることが分かりました。

■江戸川の流れを変えた?

  今回は、境川の上流にあたる江戸川から調べることができないかと、『浦安町誌 上』を調べてみると、p.154の「江戸川」の項に 細川忠興(ただおき)が、寛永2年(1625年)に幕府の命で旧江戸川の川幅を18間に改修したが、激流のため次第に決壊し、現在のような川幅となった。 という記述が見つかりました。川幅18間(けん)は、現在の単位に換算すると約33メートルです。現在の旧江戸川の川幅は、西水門から対岸の江戸川区の間で100メートル強ありますので、当時は、1/3以下程度の川幅だったことになります。さらに別の資料を調べてみます。『詳解 行徳歴史年表』(12)の目次で探すと、p.157に寛永2年乙丑(きのとうし)1625年 江戸川の流路を現在の浦安方向へ変更とあります。また、『明解 行徳の歴史大事典』p.399(13)には、1625年(寛永2年)、押切(現在の市川市押切周辺)の地で江戸川を締め切り、現在の流路へ変更される。 と、記されています。1625年(寛永2年)は、『浦安町誌 上』によると、細川忠興が旧江戸川の川幅を拡げた年です。江戸川を市川市押切で締め切り、流路を変更したとは、どういうことなのでしょうか?

  再び、『葛飾記』を調べてみると、p.330の太田道灌(1432年生〜1486年没)の時代について記されている箇所に、湊村も海より川へ掘割り、大船、又、鎌倉往来の船をも通路したる 湊村といふは、海邊より大船の川へ入ル口也。(但シ、右鎌倉船の入津場なり)今、村名と成る。(筆者中略)其村の河尻跡とて畑に成り、持村一統して河形知ラる。(于レ今、河の入江の様に殘リし押切村、湊村の境に在り。往還なり) とあります。湊村は、現在の市川市湊周辺で、ここまで鎌倉からの船などが海から入ってきたとされています。

*掘割(ほりわり)は、地に掘って水をとおしたところ。(『日本国語大辞典第2版 12』p.208(14)

  この『葛飾記』では、行徳について、行徳の中も、地、切迫にして、南は川より近きは二三町、遠きは十町に不レ足。と記されています。この距離を現代の距離に換算すると、最短で220メートル程度、最長だと1キロメートル程度になります。

*一町は、約109.09メートル(『令和6年 理科年表』附23 p.1165 慣用の計量単位(15) 以下、約109メートルとします。二三町で、約218メートル〜327メートル、十町で約1090メートルとなります。

  国土地理院の標準地図で調べてみると、旧江戸川岸の押切水門を起点にすると最短の220メートルは、行徳駅前から旧江戸川方向へ向かう通りの中ほどにあたります。東京メトロ東西線浦安駅前交差点からつながる千葉県道6号市川浦安線は、旧江戸川岸から約380メートルのところを通っています。行徳駅までは、約560メートル。そして、最長の1キロメートルでは、行徳駅を越えた行徳2丁目付近になり、現在では、旧江戸川岸から東京湾岸(三番瀬側)までの半分程度の距離になります。(下の図2)

行徳周辺図

図2  出典:国土地理院Webサイト 国土地理院地図を加工して、行徳周辺を表示しています。

  また、『詳解 行徳歴史年表』p.159では、流路変更と同じ年(寛永2年(1625年))の出来事として、本行徳に旅人の行徳船津、押切に貨物専用の行徳河岸(祭礼河岸)の設置とあります。この、行徳河岸(祭礼河岸)とは、どのような場所なのでしょうか?

  行徳河岸(祭礼河岸)について調べてみると、『行徳郷土史事典』p.222(16)に、祭礼河岸は、江戸へ送る産物の出荷場所であり、江戸からの下り荷の船着場でした。とあります。農産物や水産物をここから、江戸へ運んでいたのでしょう。また、この河岸は、光林寺の南、稲荷神社の西にあたる押切13番,14番付近に設置されていたと記されています。国土地理院地図で調べてみると、東京メトロ東西線行徳駅を背にして行徳駅前通りを旧江戸川方向へ歩くと、突き当りの少し手前(押切稲荷神社が近くにある)付近です。

■江戸幕府の治水事業

  ところで、幕府は、なぜ江戸川の流路を変えたのでしょうか?

  『海の日本史 江戸湾』p.151や『明解行徳の歴史大事典』p.404では、文禄3年(1594年)頃から、幕府は、東京湾へ流れ込んでいた利根川を銚子の方向へ流れを変える利根川東遷(とねがわとうせん)と呼ばれる大規模な治水工事を始めたことがわかります。この工事は、60年以上かけて行われ、のちに江戸川と呼ばれるようになる太井川は、東へ流れる利根川の分流となり、東京湾へ流れ込むことになりました。 この利根川東遷が行われた理由として、『川の変遷と村 利根川の歴史』p.5(17)で、利根川東遷は、沖積平野を安定した耕地にかえ、その物質的、社会的基礎をつくりだすことであり、江戸の北部、武藏国の東部は、利根川、荒川、太日川が乱流し、複雑に関連しあって、もっとも耕地化の困難な地域として残され、(中略)三川の洪水は、江戸に水害を直接もたらす源だった。そこで、安定した水田をつくりだし、かつ江戸を水害からまもるために行われたと説明されています。

  今回、紹介した江戸川の流路変更は、所蔵資料を調べた限りでは、利根川東遷と直接的に関係があるような記述は見つかりませんでした。次回は、江戸幕府が江戸川の流路を変えた理由を探ります。

令和7年(2025年)11月28日

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