そのB 黒い水事件と漁業権放棄
昭和33年4月、江戸川上流にある本州製紙江戸川工場から廃水された真っ黒な汚水によって浦安の漁場が汚染され、魚介類に大きな被害がでた。浦安の漁民たちは何度も工場側と折衝したが、汚水は流され続けた。同年5月、集団抗議をすべく工場に乗り込んだところ、汚水が流されているのを目前にみて激怒した漁民たちが工場のガラスを割ったり、石やレンガを投げ込む騒動となってしまった。そして、6月10日、度重なる会社側の不誠実な対応に抗議すべく、毒水放流反対の町民大会を開催した。大会終了後、陳情のために工場に訪れたが、鉄の門扉を固く閉ざす工場側の態度に激昂した漁民たちは門扉を押し破って工場内になだれ込み、会社側の要請により待機していた警察官との乱闘になった。この結果、漁民から重軽傷者105人をだすという大事件になってしまった。
これをきっかけに政府は「公共用水域の水質保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」を相次いで公布し、この事件は戦後の経済一辺倒の政策への警鐘となった。また、このころから浦安の漁場は京浜工業地帯の埋立てなどにより水質が悪化し漁獲量は減少の一途であったため、昭和37年の漁業権一部放棄を経て、ついに昭和46年に漁業権を全面放棄した。
『ハマん記憶を明日へ 聞き書き報告書1』
博物館ボランティア「浦安・聞き書き隊」/編纂 2009年
浦安市文化財調査報告書の第5集。「黒い水事件」当時を知る人々に聞き取り調査を行い、まとめられた報告書。漁業権放棄前後の浦安の漁業がわかる。
そのC 公有水面埋立事業
高度経済成長が始まる昭和30年代、すでに飽和状態の京浜工業地帯にかわり、千葉県臨海地帯の海面埋立てが急速に進められていた。それにより魚場の水質汚染が進んだことや、昭和33年4月の黒い水事件以来、漁獲量が著しく減少し、漁業の存続が困難になっていたため、埋立てによる開発が検討されるようになってきた。ちょうどそのころ、浦安町の海面の土地に東洋一の遊園地を作る計画がもちあがり、浦安町は、総合開発審議会に諮問するとともに漁業協同組合と協議した。そして、紆余曲折の末、昭和37年、漁業権の一部放棄に至った。これに基づき、千葉県は株式会社オリエンタルランドとの間に「浦安地区土地造成事業及び分譲に関する協定」を締結し、住宅地の造成、大規模遊園地の誘致、鉄鋼流通基地の形成を基本とする公有水面埋立事業が決定された。昭和39年より本格的な工事が始まり、昭和50年11月に第1期埋立事業が完了した。これにより町域は4.43kuから11.34kuに拡大した。第2期埋立事業は昭和46年7月の漁業権全面放棄を受け、昭和47年12月から始まり、昭和55年12月に完了した。これにより町域は16.98kuまで拡大し、埋立て前のおよそ4倍になった。
『緑あふれる海浜都市URAYASU』
総合政策推進室企画課/制作 1991年
公有水面埋立事業の概要と市域面積の拡大している過程がわかる。埋立地の開発と街づくりについて説明されている。